なぜ世間の人々は槇原敬之を裏切ったのか?

2020年の日記から。

 

マッキー逮捕。TwitterとYahooニュースで、本件について書かれたコメントを読んだ私は盛大に失望していた。槇原敬之の人格を否定するようなお調子者供の発言が目立った。

 

彼らは無邪気な芸能ウォッチャーなのだろうが、その軽薄さを差し引いても前回槇原敬之が逮捕されたときから少しも進歩していない……人の不幸に飢えて情報漬けとなった暇人どもはよいお楽しみの一つになったと口に出さぬともほくそ笑んでいることだろう。

 

『どんなときも」とはシャブホモ槇原敬之自身の応援歌であり、自己の表明だ。その歌を聴いて我がことのように感じたり、励まされたりするのはまさに聴き手の勝手であり、そういった自分勝手な共同幻想槇原敬之の人格を誤解し、攻撃している人の多さに私は名状しがたい恐怖と現実的な危機感を抱く。

 

槇原敬之が世間を裏切ったのではない。槇原敬之の生活の一部を垣間見て勝手に失望した人たちこそが裏切っているのだ。そんな人たちは槇原敬之の一体なにを知っているのだろう?

 

どんなときも 作った槇原敬之と、シャブホモの槇原敬之とは乖離しない。共同幻想が破れたと思い込み大騒ぎする大衆の精神性こそが、『どんなときも』とかけ離れているのだ。事を大袈裟にするのはいつだってマスコミと彼等と同盟関係にあるスカベンジャーという名の大衆なのだ。

 

チャゲアスのアスカが捕まった時も、アスカは覚せい剤なんてしない! 薬物をやる人にあんな素晴らしい曲は書けない! と熱狂的な一部のファンが気炎をあげていたが、やはり間違っていたのはファンの方であったと我々は知っている。

 

槇原敬之がホモのシャブ中として我々の前に正体を現したのは1999年のこと。現在は2020年。この間に世界の様相は大きく変化しているというのに、圧倒的大多数の日本人はぶら下げられた情報以外に目を向けることができないでいる。

 

覚せい剤とラッシュの組み合わせ……なるほどこれ以上に肛門性交を連想させるドラッグの組み合わせはない。あるとすればMDMAとラッシュか、99年に彼はMDMAの所持でも逮捕されている。ラッシュは2000年代の途中まで合法だったわけで、最初の逮捕時は容疑にすら入らなかっただろう。そう、彼はシャブセックスが好きなのだ。これはきわめてプライベートの問題であり、バイブレーターを使うとか、味付きのコンドームを使うといった行為と根っこの部分はなんらかわらないのだ。

 

大衆とマスコミは、LGBTだとかセクマイだとか世界の流行りに乗っては見るものの、相変わらずクラフト・エヴィング先生お仕着せのモラルしか持ち合わせていないのは非常に恥ずべきことなのだ……